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<title>天地人、篤姫の大河ドラマ＆徳川将軍家系図＆江戸時代文化</title>
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<description>ＮＨＫ大河ドラマの天地人。上杉家の家臣、直江兼続を特集します。越後や米沢は米どころ。特に南魚沼郡といえばコシヒカリ。それだけで米の価値が跳ね上がります。直江兼続はここで生まれたのです。寒いところは名物料理もいっぱいあります。豊臣時代になって移封され米沢は海に面していないため魚は川魚になってしまいますが、それはそれ。折にふれ地元のグルメを紹介していきます。
徳川家と言えば江戸幕府１５代将軍。明治維新後は侯爵となって華族に名を連ねています。代々の将軍を挙げると初代家康、２代秀忠、３代家光、４代家綱、５代綱吉、６代家宣、７代家継、８代吉宗、９代家重、１０代家治、１１代家斉、１２代家慶、１３代家定、１４代家茂、１５代慶喜となります。将軍でなくとも有名なのは黄門さまの水戸光圀など紀州、尾州、常陸・水戸の御三家。また天章院篤姫と肝属尚五郎。その氏の成り立ちから葵の家紋、美術館や博物館、江戸幕府３００年の歴史とその周囲の親藩、譜代、島津家など外様の各大名、宗家にかぎらず御三家、御三卿など大徳川氏の家系図をまじえ、大奥から側室、埋蔵金までそして江戸町文化や浮世絵について語っていきます。
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 <title>天地人、篤姫の大河ドラマ＆徳川将軍家系図＆江戸時代文化</title>
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<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50710276.html">
<title>小国実頼</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50710276.html</link>
<description>
　兼続の弟、与七は小国家の養子となります。

　小国氏は源頼光の末裔と言われ、当時天神山城主でしたからかなりの家柄。

　当然のことながら一族も沢山います。

　しかしながら御館の乱で一族のまとまりがつかなくなってしまい、景勝の側近である与七を受け入れて当主と...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-07-04T23:53:59+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　兼続の弟、与七は小国家の養子となります。<br>
<br>
　小国氏は源頼光の末裔と言われ、当時天神山城主でしたからかなりの家柄。<br>
<br>
　当然のことながら一族も沢山います。<br>
<br>
　しかしながら御館の乱で一族のまとまりがつかなくなってしまい、景勝の側近である与七を受け入れて当主としたようです。<br>
<br>
　その後、御館の乱以来、景勝に離反していた新発田氏征伐で功を上げ、上杉家の中でもno.4くらいへ登っていきますが、兼続と衝突。<br>
<br>
兼続の娘を本多政重（正信の子、正純の弟）に嫁がせることに反対し、政重の使者を殺して、知行を捨て高野山へ逃げます。<br>
<br>
　本多政重も正信の子とはいえ、徳川秀忠の乳母の子を切り殺して徳川家を出奔していたので、その辺の関係を危惧したのでしょう。<br>
<br>
　本多政重は大谷吉継や宇喜多秀家などの家臣を転々としていました。<br>
<br>
　完全なアンチ徳川です。<br>
<br>
　小国（大国）実頼は主に京に居て、歌などを詠みながら都の情勢を上杉家に知らせる役目をしていたようです。<br>
<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50706074.html">
<title>秀吉の人たらし</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50706074.html</link>
<description>　秀吉は人たらしと評判がたつほど他人の心をつかむのが上手だったようです。

　生まれながらの武将でなく、下から苦労して上がってきただけに、言葉使いがどれだけ人を傷つけるか、また人を感動させるかについて他の武将よりも心得ていたのでしょう。
　また信長の後を...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-06-21T12:53:29+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[　秀吉は人たらしと評判がたつほど他人の心をつかむのが上手だったようです。<br>
<br>
　生まれながらの武将でなく、下から苦労して上がってきただけに、言葉使いがどれだけ人を傷つけるか、また人を感動させるかについて他の武将よりも心得ていたのでしょう。<br>
　また信長の後を継いだだけに、信長と対比されたのも大きかったかも知れません。<br>
<br>
　信長の特徴は敵は殺戮し尽くすというものでした。<br>
<br>
　他の戦国大名も似たり寄ったりだったかも知れません。<br>
<br>
　それに対し、秀吉が用いた策は、寝返った（降伏した）敵将は許すと言うものでした。<br>
　もちろん多くの戦国大名も自分の地位が確立される以前は、降伏した敵は許すと言うことをしばしば行っていましたが、自国が大きくなるに従い、敵は滅ぼすという傾向に変わっていきます。<br>
<br>
　秀吉は自身に子がなかったためか、天下統一への最短の方法として「敵は滅ぼすのではなく味方につける」という方法を選んだのかも知れません。<br>
<br>
　秀吉はしばしば相手を誉めちぎるという手法を使います。<br>
<br>
　これを敵方の家臣に用いて引き抜き工作をやると、相手方では内紛が起こることがしばしばでした。<br>
<br>
　有名なのが徳川家における石川数正。<br>
<br>
　徳川家に於いては酒井忠次と並ぶ家康の両腕でした。<br>
<br>
　数正は多くの武功を挙げただけでなく、世情にも明るく、徳川家の外交を担っていました。<br>
<br>
　一方、忠次は無骨一辺倒だったようです。<br>
<br>
　この数正が秀吉との交渉を重ねていくうちに秀吉に取り込まれます。<br>
<br>
　秀吉の家臣達の前で大いに褒めそやされます。<br>
<br>
　そして小牧長久手の戦いののち、徳川家を出奔します。<br>
<br>
　謎の出奔と言われ、家康がわざと豊臣家に送り込んだスパイという説を取る小説家もいますが、後に大阪の陣で徳川方に付いたものの、その後の待遇は低かったことを考えるとそうではないでしょう。<br>
<br>
　徳川家内部の世情に暗い好戦派（豊臣と対立しようとする者たち）をみてて嫌気がさしたと言う説。<br>
<br>
　豊臣家との外交を重ねているうちに好戦派と対立し、身の危険を感じて豊臣に走ったという説などがあります。<br>
<br>
　いずれにせよ石川数正の出奔により、徳川家は大きな痛手を受けることになります。<br>
<br>
　この出奔は景勝上洛の半年前のことです。<br>
<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50703222.html">
<title>福島正則</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50703222.html</link>
<description>
　秀吉の親族として、加藤清正、浅野長政と並んで有名な武将です。

　この他の親族で活躍したのは秀吉の弟の秀長くらいでしょうか。

　当時の夫婦は子沢山だったので、秀吉に仕えた親族はもっと居た

　のでしょうが戦場に散ったものと思われます。

　福島正則は秀吉の従...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-06-12T18:20:52+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　秀吉の親族として、加藤清正、浅野長政と並んで有名な武将です。<br>
<br>
　この他の親族で活躍したのは秀吉の弟の秀長くらいでしょうか。<br>
<br>
　当時の夫婦は子沢山だったので、秀吉に仕えた親族はもっと居た<br>
<br>
　のでしょうが戦場に散ったものと思われます。<br>
<br>
　福島正則は秀吉の従弟と伝えられています。母親同士が姉妹だった<br>
<br>
　ようです。<br>
<br>
　加藤清正よりは一つ年上ですが、秀吉に仕官したのはほぼ同じころ。<br>
<br>
　浅野長政は元々が織田家の家臣で秀吉の与力でしたから当時としては<br>
<br>
　正則よりは格上の存在でした。<br>
<br>
　その正則も山崎の合戦の前までは１００石貰っていたかどうかどうか<br>
<br>
　の名もない存在でしたが、山崎の合戦後５００石取りとなり、<br>
<br>
　賤ヶ岳七本槍で名を馳せて５０００石取りとなります。<br>
<br>
　この七本槍というのも微妙でして、秀吉子飼いの人たちの名が活躍した<br>
<br>
　ことになっていますが、各人がどれほど活躍したのかは、良く解って<br>
<br>
　いません。<br>
<br>
　秀吉の宣伝効果に依るところが大きいと言われています。<br>
<br>
　正則の場合は実際に敵将拝郷家嘉（加賀大聖寺城主）を討ちとり、<br>
<br>
　七本槍の中では突出した恩賞を受けています。<br>
<br>
　その後も秀吉の信頼を得て、徳川家康が攻めのぼってくることの牽制<br>
<br>
　として尾張清州城主２４万石の大名となっています。<br>
<br>
<br>
　その後、石田三成との不仲を家康に利用され、関ヶ原の合戦では東軍の<br>
<br>
　先鋒として働き、家康により４９万石に加増されますが、尾張を<br>
<br>
　召し上げられ安芸広島へと飛ばされ、大坂城を守る位置ではなくなり<br>
<br>
　ました。<br>
<br>
　大阪攻めに当たっては豊臣恩顧の大名として家康に警戒され、江戸<br>
<br>
　留守居役となり、大阪の蔵屋敷にあった兵糧米を大坂方に提供します<br>
<br>
　江戸幕府になってからは徳川内部のお家騒動に巻き込まれ、本多正純<br>
<br>
　の失脚を目指す土井利勝一派によって因縁を付けられ改易させられます<br>
<br>
　その後、子孫は３０００石の旗本（後に２０００石に減俸）として<br>
<br>
　残ることになります。<br>
<br>
　フロイスの「日本史」にも残忍な性格の太閤の甥として紹介されて<br>
<br>
　いますが、この辺は彼の知り合いのキリシタンを殺そうとしたことに<br>
<br>
　原因があるようです。<br>
<br>
　伝わるところでは酒好きの人物だったようで、いくつかの逸話が<br>
<br>
　残っています。恐妻家の話もドラマに出てくるかも知れません。<br>
<br>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50700843.html">
<title>兜</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50700843.html</link>
<description>
　兜の歴史は相当古いようで、人類誕生から間もなく、つまり手を使ってものを工作し始めると直ぐに防具として発明されたようです。

　ギリシャ神話に出てくるヘラクレスでさえ、毛皮の兜を着用しています。

　このように初期の兜は皮で頭を防御するものだったのですが、人...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-06-05T21:52:07+09:00</dc:date>
<dc:subject>戦国時代はそれぞれの国の雄、外様大名</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<img src="http://image.blog.livedoor.jp/strawberryfloor6/imgs/a/b/abb80849.gif?300238" width="300" height="238" border="0" alt="nichigetsu" hspace="5" class="pict" align="left"  /><br>
　兜の歴史は相当古いようで、人類誕生から間もなく、つまり手を使ってものを工作し始めると直ぐに防具として発明されたようです。<br>
<br>
　ギリシャ神話に出てくるヘラクレスでさえ、毛皮の兜を着用しています。<br>
<br>
　このように初期の兜は皮で頭を防御するものだったのですが、人類が金属を使うようになってからは、中国の商の時代の青銅で出来た兜が発掘されています。<br>
<br>
　兜に実用性がない装飾が付けられるようになったのは平安時代から。<br>
<br>
　突起物が付けられるようになり、武士の時代になると立物が現れます。<br>
<br>
　兼続の「愛」の字が付いている、あれです。<br>
<br>
　最もポピュラーなのは農具の「鍬」の形に似た鍬形です。<br>
<br>
　初めは鹿の角を抽象化したものだったようですが徐々に細長いものから太く短いものへとなっていき、更にさまざまな意匠のものが現れました。<br>
<br>
　竜、獅子、鬼、日、月などが現れ、上杉謙信のものは日月と言われ、三日月と太陽を合わせたような図案です。（画像）<br>
<br>
　鏡は呪術的な神秘の力、剣は悪霊を退治する不動明王、羽扇は天狗信仰と言ったように宗教的なもの。<br>
<br>
　植物では縁起の良いものをかたどって、成長の早い「筍」や「竹」、神聖とされる「柏」尚武に繋がる「菖蒲」、勝ち栗からくる「栗」、魔除けの「柊」などです。<br>
<br>
　動物では稲荷信仰からきた「狐」敏捷さをあやかって「兎」や「隼」、瑞祥の「鶴」。<br>
　また動物の毛や羽そのものも使われました。<br>
<br>
　その他に魚、貝、虫、神仏、山、稲妻、炎と言ったような、宗教的な意味のあるもの、縁起の良いものが使われています。<br>
<br>
　兼続のような信念を顕すものも種類は多かったようですが、多くの人が同じデザインを使った「信念もの」はあまりなく、それぞれのオリジナリティーだったようです。<br>
<br>
<br>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50698666.html">
<title>真田幸村</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50698666.html</link>
<description>本名、真田信繁 　真田氏は信濃国小県郡真田郷の豪族です。

　父、昌幸は武田の家臣として武藤家を継いでいましたが、長篠の合戦で

　本家を継いでいた兄二人が戦死したため、以後三男の昌幸が武田氏を

　継ぎました。

　真田家の家紋「六文銭」（六連銭）は有名です。

...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-05-30T15:06:22+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[本名、真田信繁 　真田氏は信濃国小県郡真田郷の豪族です。<br>
<br>
　父、昌幸は武田の家臣として武藤家を継いでいましたが、長篠の合戦で<br>
<br>
　本家を継いでいた兄二人が戦死したため、以後三男の昌幸が武田氏を<br>
<br>
　継ぎました。<br>
<br>
　真田家の家紋「六文銭」（六連銭）は有名です。<br>
<br>
　さて武田家滅亡の後は、生き残りのため主家を次々と替えますが、<br>
<br>
　ドラマに出てくる第一次上田合戦にて２０００の兵で７０００の徳川軍<br>
<br>
　を退けたため、独立の大名と認められるようになりました。<br>
<br>
　その後、秀吉の命で家康と和睦し、幸村の兄で嫡男の信幸が家康の養女<br>
<br>
　を正室に貰い、徳川氏の与力大名となります。<br>
<br>
　そして関ヶ原の合戦では、信幸が東軍として会津征伐に従軍する傍ら、<br>
<br>
　城に残った幸村と父・昌幸は西軍として中山道を西進する徳川秀忠の<br>
<br>
　３万の軍勢を迎え撃ちます。この為、進軍がままならなくなった<br>
<br>
　秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わないと云う失態を演じてしまうことに<br>
<br>
　なります。（一説には徳川軍を温存するため、秀忠はわざとゆっくり<br>
<br>
　西進したとも言われています）<br>
<br>
　関ヶ原の戦の後、信幸による助命嘆願で、昌幸・幸村は紀伊国九度山<br>
<br>
　に蟄居させられ、昌幸はその地で死去。<br>
<br>
　大阪の陣が始まったときは幸村だけが参陣します。<br>
<br>
　その頃の幸村は昌幸の二男と言うだけで天下では無名の存在でした。<br>
<br>
　しかし冬の陣では真田丸という出城を三の丸の南側に築き、徳川方を<br>
<br>
　散々に苦しめます。これで一気に幸村の名が天下に轟きました。<br>
<br>
　冬の陣が和睦となった際には、徳川方によってこの真田丸が真っ先に<br>
<br>
　取り壊されます。<br>
<br>
　幸村は徳川方の使者で叔父の真田信尹から「信濃一国」を条件に<br>
<br>
　徳川方に付くよう説得されますが、これを拒否。<br>
<br>
　そして夏の陣。<br>
<br>
　またも幸村は奮戦を繰り返しますが徐々に大坂方の武将も討ちとられ<br>
<br>
　最後の策として家康本陣を突くという手に出ます。<br>
<br>
　毛利勝永が本多勢を、幸村が越前松平勢を突破し、家康本陣に突入<br>
<br>
　します。この時家康は自害をも覚悟して馬で逃げたと言われますが、<br>
<br>
　本陣の馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来です。<br>
<br>
　しかし家康は逃げ切り、幸村は四天王寺近くの安居神社で討ち取られ<br>
<br>
　ます。享年４９歳でした。<br>
<br>
　翌日、大坂城が落城します。<br>
<br>
　兄・信幸は徳川家の譜代大名として存続しますが、幸村の家系は<br>
<br>
　二男守信が伊達家家臣片倉重長の保護を受け、仙台真田家として<br>
<br>
　伊達氏の中で存続していきます。<br>
<br>
　なお真田十勇士は江戸時代の小説「真田三代記」に初出するものであり<br>
<br>
　実在した人物名もあれば猿飛佐助のように大正になって立川文庫により<br>
<br>
　付け加えられた人物もいます。<br>
<br>
<br>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50695952.html">
<title>石田三成</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50695952.html</link>
<description>　石田三成は近江国坂田郡石田村の土豪、石田正継の次男として、

　永禄3年（1560年）に生まれています。

　石田氏は北面の武士であった下毛野氏の一族、あるいは京極氏に属する

　荘園の代官であった土豪など、出自には諸説あるようです。

　観音寺で修業してい...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-05-22T13:44:36+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[　石田三成は近江国坂田郡石田村の土豪、石田正継の次男として、<br>
<br>
　永禄3年（1560年）に生まれています。<br>
<br>
　石田氏は北面の武士であった下毛野氏の一族、あるいは京極氏に属する<br>
<br>
　荘園の代官であった土豪など、出自には諸説あるようです。<br>
<br>
　観音寺で修業していた際に、秀吉に茶を所望され、その時の縁で<br>
<br>
　秀吉に召し抱えられたという話が有名ですが、その話の真偽はともかく<br>
<br>
　秀吉の長浜城時代に仕え、その行政官僚としての才能はかなり高かった<br>
<br>
　ようです。<br>
<br>
　賤ヶ岳の戦いでも武功をあげていますが、もっぱら輜重部隊の指揮官<br>
<br>
　として四国征伐、九州征伐で活躍し、さらに朝鮮出兵の際にも秀吉の<br>
<br>
　代官として実績を上げています。<br>
<br>
　しかしこの秀吉の代官と言うのは難しい役目で、不満を秀吉に言えない<br>
<br>
　武将たちは、すべての鬱憤を代官のせいにしてしまうところもあり、<br>
<br>
　まして腰の低い性格ではない三成に対する反感は、特に朝鮮の役で<br>
<br>
　深まったようです。<br>
<br>
　それまで仲の良かった加藤清正とも仲違し、前田利家没後は武断派の<br>
<br>
　七将に大阪屋敷を襲われるという事件も起きています。<br>
<br>
　その後関ヶ原の戦いを経て六条河原で斬首されるのですが、その子孫は<br>
<br>
　意外と発展していて、男系は次男重成は津軽氏に匿われ杉山源吾を<br>
<br>
　名乗り津軽氏家臣として続いていますし、女性は血の縛りがないため<br>
<br>
　娘の辰姫は津軽家に嫁していて３代藩主津軽信義の生母となっています<br>
<br>
　また蒲生家臣の岡重政に嫁いだ娘（名前不詳：女性の諱は日本国の文化<br>
<br>
　に於いては秘匿するため、史料に残らないことが多い）の孫は３代将軍<br>
<br>
　家光の側室として長女千代姫を産み、千代姫は尾張徳川家に嫁いで<br>
<br>
　尾張家の藩主に血を残しています。<br>
<br>
<br>
<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50693686.html">
<title>織田三法師</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50693686.html</link>
<description>　山崎の合戦で光秀に勝利した秀吉は清州会議で織田信忠の子三法師を

　担ぎ、織田家の後継とすることに成功します。

　清州会議に出席したのは、秀吉、勝家の他、丹羽長秀、池田恒興の４人

　勝家は信長の３男信孝を推しますが、血筋からすれば正統性は三法師

...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-05-15T18:41:59+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[　山崎の合戦で光秀に勝利した秀吉は清州会議で織田信忠の子三法師を<br>
<br>
　担ぎ、織田家の後継とすることに成功します。<br>
<br>
　清州会議に出席したのは、秀吉、勝家の他、丹羽長秀、池田恒興の４人<br>
<br>
　勝家は信長の３男信孝を推しますが、血筋からすれば正統性は三法師<br>
<br>
　にあり、かつ既に丹羽長秀、池田恒興は秀吉に心服しており、滝川一益<br>
<br>
　不在の会議は勝家に不利で、後継は三法師と決まります。<br>
<br>
　当然のことながら、当時３歳の三法師に当事者能力はなく、三法師が<br>
<br>
　織田家を継ぐということは後見人の秀吉が継ぐと云うことを意味します<br>
<br>
　丹羽長秀、池田恒興はそのことを理解していたようですが、柴田勝家は<br>
<br>
　判っていなかったようで、秀吉主催の信長の葬儀が京で行われた後も<br>
<br>
　一緒に織田家を盛り立てていきたいと思っていたようです。<br>
<br>
　賤ヶ岳の戦いを経て天下の情勢が秀吉に傾いて後の三法師は<br>
<br>
　秀吉によって岐阜城を与えられ、織田秀信と名乗ります。<br>
<br>
　その後、小田原城攻めや文禄の役でも豊臣家の将として参戦しますが<br>
<br>
　秀吉没後の関ヶ原の合戦前の会津征伐において出陣が遅れたため<br>
<br>
　領国に残っていたところを、美濃・尾張の２カ国を餌に三成に<br>
<br>
　誘われ西軍につきます。<br>
<br>
　会津征伐から取って返した東軍に対し、居城の岐阜城にて籠城戦と<br>
<br>
　なりますが兵力不足で落城。<br>
<br>
　自害しようとしたところを池田恒興の子輝政に説得され、また、<br>
<br>
　福島正則が関ヶ原における自分の功績と引き換えに助命嘆願を<br>
<br>
　したことからかなり人望はあったのでしょう、高野山へ隠遁という<br>
<br>
　ことになります。<br>
<br>
　しかしかつて信長が高野山攻めをしたことが祟って、山を追放され<br>
<br>
　紀州向副村というところで２６歳で没しています。<br>
<br>
　彼の子孫は向副で郷士として明治まで続いたようです。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50691186.html">
<title>魚津城の戦い</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50691186.html</link>
<description>
  天正10年（1582年）３月織田軍は１万５千の兵で魚津城を攻撃。

　迎え撃つ上杉軍は３８００。籠城作戦をとります。

　通常、城攻めには３倍の兵力が必要と言われますが、今回は４倍。

　魚津城が落ちるのは時間の問題です。

　ドラマにもあったように景勝は救援軍５千...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-05-08T19:04:24+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
  天正10年（1582年）３月織田軍は１万５千の兵で魚津城を攻撃。<br>
<br>
　迎え撃つ上杉軍は３８００。籠城作戦をとります。<br>
<br>
　通常、城攻めには３倍の兵力が必要と言われますが、今回は４倍。<br>
<br>
　魚津城が落ちるのは時間の問題です。<br>
<br>
　ドラマにもあったように景勝は救援軍５千を率い、天神山に陣を<br>
<br>
　敷きますが仕掛けられずにいるうちに織田軍の越後乱入の報が伝わり<br>
<br>
　春日山城に引くことになります。<br>
<br>
　上杉本隊からの援軍の先発隊として既に来ていた上条政繁（七尾城攻め<br>
<br>
　の際の建前上の総大将で畠山氏の血を引く）も撤退します。<br>
<br>
　その後6/3に城将１２名が自害して落城。<br>
<br>
　多くの子女も一緒に自害して果てたそうです。<br>
<br>
　８０日間の籠城戦は永い方だとか。<br>
<br>
　通常は内部崩壊してもっと早く落ちるそうで、上杉軍の結束が窺えます<br>
<br>
　落城の前日の6/2に本能寺の変。<br>
<br>
　本能寺の変が柴田勝家に伝えられたのが6/4。<br>
<br>
　そして勝家は攻め落とした魚津城を急遽放棄して兵を引くことに<br>
<br>
　なります。風前のともし火だった越後の上杉氏は滅亡を逃れました。<br>
<br>
　この後は北条氏を相手に旧領を回復していくことになります。<br>
<br>
<br>
　今回のドラマ放映に便乗して、魚津水族館では魚津城の戦いを<br>
<br>
　魚で再現するそうです。<br>
<br>
　６月末まで開催しているとのことなので、近くに行かれた際は<br>
<br>
　寄ってみるのも面白いかも知れません。<br>
<br>
　大河ドラマの経済効果は大きいですからね。<br>
<br>
　今回も魚津城の戦いは３話に渡って展開されています。<br>
<br>
　去年の篤姫は２００億円の経済効果を鹿児島県にもたらしたそうです。<br>
<br>
　一方、ドラマが終了した後の反動も怖い。<br>
<br>
　すべては一時的なものですから。<br>
<br>
　富山と長野では木曽義仲を主人公にしたドラマをＮＨＫに陳情している<br>
<br>
　とか。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50688876.html">
<title>本能寺の変、秀吉黒幕説</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50688876.html</link>
<description>
  に本能寺の変が起きた。

　ここで一つ考えなければなりません。

　信長の天下が来ることを、果たして信長の家臣団は喜んだでしょうか？

　直前の天正８年には佐久間信盛や安藤守就が永年の功績を棚上げにされ

　過去、信長に逆らったことを理由に改易されて...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-05-02T14:24:43+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
  に本能寺の変が起きた。<br>
<br>
　ここで一つ考えなければなりません。<br>
<br>
　信長の天下が来ることを、果たして信長の家臣団は喜んだでしょうか？<br>
<br>
　直前の天正８年には佐久間信盛や安藤守就が永年の功績を棚上げにされ<br>
<br>
　過去、信長に逆らったことを理由に改易されています。<br>
<br>
　信長は合理主義者ではあったが人の心の機微を掴むのは無頓着だった<br>
<br>
　事がうかがえ知れます。<br>
<br>
　そして家康でさえ「暗殺説」が何の疑いもなくまかり通っています。<br>
<br>
　このような状況では真に信長の天下を喜ぶ家臣は少なかったはず。<br>
<br>
　誰もが使い捨てにされることを恐れていました。<br>
<br>
　光秀しかり、秀吉しかりです。<br>
<br>
　通説では秀吉が信長に援軍を要請したのも、自分が毛利征伐の手柄を<br>
<br>
　立ててしまっては後々信長にうとまれるのが怖かったからと言います。<br>
<br>
<br>
　さてそこで、本能寺の変の秀吉黒幕説。<br>
<br>
　何より明確に物語っている状況証拠が秀吉の中国大返しです。<br>
<br>
　常識では考えられない日程で大阪に戻ってこれた。<br>
<br>
　何故か？<br>
<br>
　あらかじめ準備していたからです。<br>
<br>
　歴史家の一部には秀吉と光秀が組んでいたのなら、山崎の合戦の前に<br>
<br>
　光秀が「なぜ俺を裏切るのか？」と糾弾するはずだというような<br>
<br>
　ことを言います。<br>
<br>
　私にしてみれば「あなたは駆け引きと云うものを知っているのか？」<br>
<br>
　と問いたい。<br>
<br>
　秀吉は決して光秀とコンタクトは取っていません。<br>
<br>
　いざと云う時に信長にバレる様な証拠を残すわけがないじゃないですか<br>
<br>
　秀吉は光秀と２０年来の付き合いです。<br>
<br>
　光秀の考えることはほぼ想像出来るはずです。<br>
<br>
　そして当時は信長がいつ家康を殺してもおかしくない世相だった。<br>
<br>
　そこで秀吉は考えます。<br>
<br>
　今、信長を中国路に誘えば、京に残っている有力武将は光秀だけ。<br>
<br>
　彼が信長を襲う事は十分あり得ると読んだのです。<br>
<br>
　光秀が信長を襲える条件、それは誰にも詮索されず軍備を整えることが<br>
<br>
　出来るかどうか。<br>
<br>
　それが秀吉軍への応援と云うことで可能になりました。<br>
<br>
<br>
　光秀、秀吉ともに信長の天下統一には危機感を感じていました。<br>
<br>
　そこで秀吉が信長の隙を演出して見せたのです。<br>
<br>
　たとえ光秀が乗ってこなくとも、自分は手柄を信長に譲ったという<br>
<br>
　ことでポイントが取れる。<br>
<br>
　もし光秀が動いてくれれば絶好のチャンス到来。<br>
<br>
、京都に探索用員を置き、中国路には「信長さまを迎えるため」という<br>
<br>
　口実で、いざと云う時に取って返すための輜重兵を配備したのです。<br>
<br>
　そして予想通り光秀が罠にはまった。<br>
<br>
　光秀は秀吉の罠とも知らず、天がくれた千載一遇のチャンスとばかりに<br>
<br>
　この機に飛びついたのです。<br>
<br>
　準備不足は判っていたでしょう。しかしチャンスは二度と訪れない。<br>
<br>
　そこで決行に踏み切った。<br>
<br>
<br>
　光秀の密書をもった人間がなんで毛利軍と間違えて秀吉軍に捕まって<br>
<br>
　しまうのでしょうか？<br>
<br>
　これは予め手配しておいた秀吉の伝令が高松城を囲む秀吉に知らせた<br>
<br>
　のであり、或いは光秀の伝令が毛利軍と秀吉軍を間違えるように<br>
<br>
　秀吉軍が毛利軍を装っていたのです。<br>
<br>
　光秀与力の細川氏や中川氏、高山氏も、すぐには光秀に与しないことを<br>
<br>
　予め秀吉は読んでいたのでしょう。<br>
<br>
　また、秀吉は中国大返しにあたり「信長さまは落ちのびている」との<br>
<br>
　噂を諸国に流し、諸将が光秀側に付くのを防ぎました。<br>
<br>
　自分が不意をついて中国大返しをすれば、光秀を討ちとれると<br>
<br>
　読んだはず。<br>
<br>
<br>
　天下を取れるほど人心収攬に長けた秀吉が、このくらいのことを<br>
<br>
　考え付くのはむしろ当然と言えるでしょう。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50686320.html">
<title>本能寺の変</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50686320.html</link>
<description>
　天正１０年（1582年）６月２日本能寺の変が起こります。

　兼続が直江家を継いだその翌年のことです。


　上杉景勝にとっては御館の乱の間に加賀、能登、越中は柴田勝家に

　蹂躙され、会津からは蘆名氏がせまり、同年、ついに上杉景勝と同盟を

　結んでい...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-04-26T01:34:46+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　天正１０年（1582年）６月２日本能寺の変が起こります。<br>
<br>
　兼続が直江家を継いだその翌年のことです。<br>
<br>
<br>
　上杉景勝にとっては御館の乱の間に加賀、能登、越中は柴田勝家に<br>
<br>
　蹂躙され、会津からは蘆名氏がせまり、同年、ついに上杉景勝と同盟を<br>
<br>
　結んでいた武田勝頼が滅亡したため、信濃路からも織田家の森長可、<br>
<br>
　上野からは滝川一益が攻め込んで来てまさに上杉家は風前の灯火と<br>
<br>
　なっていたところに、奇跡が起きたのです。<br>
<br>
<br>
　今回のドラマでは、本能寺の変の陰には光秀と家康が結んでいたような<br>
<br>
　設定となっているようです。<br>
<br>
　光秀が家康の饗応役を解かれ羽柴秀吉の与力として中国征伐を<br>
<br>
　命じられたのは真実ですが、家康饗応の席で信長に罵倒された<br>
<br>
　というのは「川角太閤記」に出てくる物語であり、信長公記に於いては<br>
<br>
　光秀は饗応の準備だけ命じられ、家康が到着する１５日の前日１４日<br>
<br>
　には中国攻めの支度のため坂本城に帰っていたと書かれています。<br>
<br>
　どちらが正しいのか。信長公記の方が歴史書としては一級です。<br>
<br>
<br>
　明智光秀の謀反については幾多の黒幕説があります。<br>
<br>
　というのも光秀の行動はあまりにも場当たり的であり計画性がないこと<br>
<br>
　また当時の状況からして、朝廷がちょっかい出したとか、足利義昭から<br>
<br>
　密書が届いたとか言われています。<br>
<br>
<br>
　ここでよく考えてみましょう。<br>
<br>
　確かに足利義昭は密書くらい出すでしょう。<br>
<br>
　光秀は元家臣であり、義昭は公然と信長に反旗を翻しています。<br>
<br>
　密書くらいしょっちゅう送っていたでしょう。<br>
<br>
　しかし朝廷はどうか。<br>
<br>
　当時の朝廷の財政を支えていたのは信長です。<br>
<br>
　いろいろ事情があって朝廷が、信長を討伐したいと考えても、<br>
<br>
　証拠が残るようなものは出すわけにいきません。<br>
<br>
　陰で暗躍するだけです。<br>
<br>
　光秀が信長を葬った後も朝廷の態度は冷たいものでした。<br>
<br>
　これは昔からの朝廷の生きていくための知恵であり、自分が<br>
<br>
　黒幕であったなどという尻尾をつかまれるようなことは決して<br>
<br>
　態度に出さないのです。<br>
<br>
　つまりこの二者は光秀にちょっかいは出していたでしょうが<br>
<br>
　それが理由で光秀に決断をさせたのかどうか。<br>
<br>
　また、光秀が家康の饗応役を解任されたのは、鮒寿司（とても匂いが<br>
<br>
　きつい）を出したためというのが川角太閤記で言われる理由ですが、<br>
<br>
　（或いは武田滅亡を語り合った言質を信長に責められた）<br>
<br>
　別の説では「家康を暗殺せよ」という信長の命令に背いたためとも<br>
<br>
　言われています。<br>
<br>
　真実は判りません。<br>
<br>
<br>
　ここで一つ、興味深い状況証拠があります。<br>
<br>
　当時日本にいたフロイスが書いた「日本史」や、光秀軍の武士だった者<br>
<br>
　が江戸時代に書いたという「本城惣右衛門覚書」によると、光秀軍の<br>
<br>
　兵士は「家康殿を討つ」と上司に言われて京に攻め入ったとのこと。<br>
<br>
<br>
　此処から推察できる事は、当時の状況下において、信長が「家康を<br>
<br>
　殺せ」と云う命令を出したとしても、周囲の人間は一つも不思議とは<br>
<br>
　感じなかったこと。<br>
<br>
　これは非常に重要です。<br>
<br>
<br>
　この時期、既に信長は日本を統一できる状況にありました。<br>
<br>
　既に、伊達、北条、三好、大友は信長への忠誠を誓っており、残る<br>
<br>
　上杉、長宗我部、毛利、島津が滅ぶのは誰の目から見ても時間の問題<br>
<br>
　だったのです。<br>
<br>
　この時期にに本能寺の変が起きたということはとても重要です。<br>
<br>
　信長の天下が見えた。だからこそクーデターが起きたのです。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50682780.html">
<title>お六饅頭</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50682780.html</link>
<description>
　新潟の六日町にお六饅頭という銘菓があります。

　越後湯沢の駅でも売っていますので口にされた方も多いでしょう。

　黒糖饅頭で結構美味しいとの評判です。

　さてこの「お六」。

　お六は与六のことで直江兼続を指します。

　六日町は兼続出生の地。
...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-04-18T11:29:28+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　新潟の六日町にお六饅頭という銘菓があります。<br>
<br>
　越後湯沢の駅でも売っていますので口にされた方も多いでしょう。<br>
<br>
　黒糖饅頭で結構美味しいとの評判です。<br>
<br>
　さてこの「お六」。<br>
<br>
　お六は与六のことで直江兼続を指します。<br>
<br>
　六日町は兼続出生の地。<br>
<br>
　主君景勝には姉妹が二人いて、一人は景虎へ嫁いだ華姫。<br>
<br>
　その妹が桂姫と言うのだそうです。<br>
<br>
　この桂姫がお六（兼続）を恋い慕うようになり、城中の噂となった。<br>
<br>
　このため、お六は景勝の小姓を辞し、一旦樋口の家で農業に<br>
<br>
　専念していたそうです。<br>
<br>
　後に桂姫は畠山義春（七尾城の畠山氏からの人質で上杉に来ていた）<br>
<br>
　の正室となり、兼続が直江家に養子に入った年に２２歳の若さで<br>
<br>
　早世した。　と地元の伝説にあるそうです。<br>
<br>
　その物語にちなんで作られたのが「お六饅頭」。<br>
<br>
<br>
<br>
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<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50679585.html">
<title>江戸の酒</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50679585.html</link>
<description>

　日本酒は古い歴史を持っていますが、消費量が増えたのは室町時代から

　の事のようです。

　恐らく酒造りは米を大量に消費するため、一般庶民にまでは

　回らなかったのでしょう。

　米の生産が安定して来てから徐々に生産量が増えていったものと

　思...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-04-11T13:59:51+09:00</dc:date>
<dc:subject>江戸幕府のしきたり、運営、徳川時代の文化</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
<br>
　日本酒は古い歴史を持っていますが、消費量が増えたのは室町時代から<br>
<br>
　の事のようです。<br>
<br>
　恐らく酒造りは米を大量に消費するため、一般庶民にまでは<br>
<br>
　回らなかったのでしょう。<br>
<br>
　米の生産が安定して来てから徐々に生産量が増えていったものと<br>
<br>
　思われます。<br>
<br>
　慶長５年（1600年）鴻池善右衛門が清酒を大量生産する技術<br>
<br>
（三段仕込み）を開発すると一般大衆にも普及していきました。<br>
<br>
　（鴻池家はその後酒造業から両替商に転換し、鴻池財閥となり<br>
<br>
　三和銀行へと引き継がれていきます）<br>
<br>
　しかし酒の消費が増えると米が大量消費され米の価格が上がるように<br>
<br>
　なったため、幕府は酒造株制度を導入し、酒造りを免許制としました<br>
<br>
　それまでは誰でも酒を造ることができたのですが、これによって<br>
<br>
　その年の米の生産高に比例して、各酒蔵が酒のために消費できる石高の<br>
<br>
　上限を定めました。<br>
<br>
　また、それ以前は一年中作られていた酒も（新酒、間酒、寒前酒、<br>
<br>
　寒酒、春酒の年５回）も酒造りの統制を目的として寒酒の製造法を<br>
<br>
　改良した寒造り以外は禁止となりました。<br>
<br>
　これによって今でも酒は寒造りが基本となっているのです。<br>
<br>
　季節によってそれぞれ作り方が違うため、他の製法は受け継がれなく<br>
<br>
　なってしまい四季醸造の復活は昭和になってからです。<br>
<br>
<br>
　徳川時代には鎌倉河岸の豊島屋のように江戸でも酒を造る業者は<br>
<br>
　いましたが主流は摂泉十二郷と言われるところで作られた酒。<br>
<br>
　水によってだいぶ味が変わるようです。<br>
<br>
　これらは江戸では下り酒と言われていました。<br>
<br>
　中でも伊丹や池田の酒が珍重されました。<br>
<br>
　江戸での消費量が余りにも多いので、生産量制限もあって、伊丹酒や<br>
<br>
　池田酒は地元では殆ど呑まれなかったようです。<br>
<br>
　その後、灘の宮水が評判となり、伊丹や池田に代わり灘が摂泉十二郷の<br>
<br>
　中心地となっていきます。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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<br>
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</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50675964.html">
<title>御館の乱</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50675964.html</link>
<description>
　春日山城三の丸を退いて関東管領家の上杉氏の居城である御館に

　立て籠った景虎。

　もちろん前の関東管領だった上杉憲政が景虎を支持したからです。

　また、春日山城を押さえて自分が謙信の正当な跡目であるということを

　誇示したかった景勝に対し、実...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-04-04T12:45:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>天地人、ＮＨＫ大河ドラマ直江兼続と上杉家</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　春日山城三の丸を退いて関東管領家の上杉氏の居城である御館に<br>
<br>
　立て籠った景虎。<br>
<br>
　もちろん前の関東管領だった上杉憲政が景虎を支持したからです。<br>
<br>
　また、春日山城を押さえて自分が謙信の正当な跡目であるということを<br>
<br>
　誇示したかった景勝に対し、実際に関東管領としての政庁であった<br>
<br>
　御館を抑えることにより、自分こそ関東管領であるということを<br>
<br>
　主張する意味もあったのでしょう。<br>
<br>
<br>
　景虎は血縁を頼って実家の北条（ほうじょう）氏に援軍を要請します。<br>
<br>
　その他、伊達氏や蘆名氏にも援軍を頼みます。この辺は前の関東管領<br>
<br>
　上杉憲政を味方にした強みでしょう。<br>
<br>
　さらにもともと越後の長尾氏は３家に分裂して争っていた為、景勝の<br>
<br>
　出身である上田長尾家を除く他の長尾家は上田家が頭に立つのは面白く<br>
<br>
　ないため、殆どが景虎に味方します。<br>
<br>
<br>
　景勝は上田長尾家と謙信直参と言える面々を味方にしていますが、<br>
<br>
　数の上では不利だったようです。<br>
<br>
　景虎に味方した北条（きたじょう）高広が上野国の景勝方を攻略し<br>
<br>
　蘆名氏や北条（ほうじょう）氏との連絡線を確保に動いた時も景勝は<br>
<br>
　援軍を送る術がなく、上野は次々と景虎方の手に落ちていきました。<br>
<br>
<br>
　そこで起死回生で打った景勝の手が武田氏の抱え込みです。<br>
<br>
　武田は長篠の合戦で織田に敗れた後の越後出兵で、領国内からの不満<br>
<br>
　が溢れていました。<br>
<br>
　しかも景虎からは「北信濃を返してほしい」という法外な要求を<br>
<br>
　受けていました。対して景勝は上野国沼田をくれると云う。<br>
<br>
　さらに北条（ほうじょう）氏はどうしたわけかなかなか出陣せず、<br>
<br>
　武田ばかりが上杉へ兵を出している。自分一人で戦う必要はない。<br>
<br>
　これでは武田勝頼としては北条（ほうじょう）を疑う心も出てきます。<br>
<br>
　このまま景勝を滅ぼしても、越後の景虎は北条（ほうじょう）氏寄り。<br>
<br>
　次は武田が滅ぼされるのではないか？<br>
<br>
　越後出陣の隙をついて遠江からは家康がちょっかいを出してきている。<br>
<br>
<br>
　そこで景勝と手を結ぶことを選択し、妹菊姫を景勝に嫁がせ同盟を結ぶ<br>
<br>
　ことにしました。<br>
<br>
　南（信濃）からの脅威がなくなった景勝軍は息を吹き返します。<br>
<br>
　８月の武田の撤兵によって北条（ほうじょう）が慌てて動き出し、<br>
<br>
　軍を上野に進めますがすぐに冬を迎え、北条（ほうじょう）氏は<br>
<br>
　軍を引かざるを得なくなります。<br>
<br>
　景勝は此処を好機と捉え一気に攻勢を掛けます。<br>
<br>
　武田が寝返ったことにより意気消沈していた景虎軍は各地で敗れ、<br>
<br>
　徐々に形勢が悪化します。そうなると勝負は決まったとみたのでしょう<br>
<br>
　景虎についていた武将たちは、次々に景勝に降伏していきます。<br>
<br>
　いちど崩れ始めるともう勢いは止まりません。<br>
<br>
　雪融けの北条（ほうじょう）氏の援軍が来るまで景虎は持ちこたえる<br>
<br>
　事が出来なくなりました。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50672138.html">
<title>老中阿部忠秋</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50672138.html</link>
<description>
　明暦の大火ではその犯人ではないかとの疑いの掛る阿部豊後守忠秋

　ですが庶民からは絶大な人気があります。

　おそらく、由比正雪の乱の際に、その根本原因であった江戸市中に

　あふれる浪人たちをどうするかと云うことで、江戸追放策が吟味され

　たさい...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-03-28T00:08:04+09:00</dc:date>
<dc:subject>三代将軍家光</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　明暦の大火ではその犯人ではないかとの疑いの掛る阿部豊後守忠秋<br>
<br>
　ですが庶民からは絶大な人気があります。<br>
<br>
　おそらく、由比正雪の乱の際に、その根本原因であった江戸市中に<br>
<br>
　あふれる浪人たちをどうするかと云うことで、江戸追放策が吟味され<br>
<br>
　たさいに真っ向から反対し、各大名家に働きかけ、就業促進を行った<br>
<br>
　為だろうと思われます。<br>
<br>
　明治時代の歴史家竹越与三郎は「（酒井忠勝・松平信綱などは）みな<br>
<br>
　政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」<br>
<br>
　と言われています。<br>
<br>
<br>
　忠秋については次のような逸話があります。<br>
<br>
　三代将軍家光が鴨狩りに行った時のこと。<br>
<br>
　神田の鎌倉河岸というところで鴨の群れを見つけます。<br>
<br>
　鴨を飛び立たせるために家光は側近の者に対して「小石を投げよ」<br>
<br>
　と命じます。<br>
<br>
　ところが道端に適当な大きさの小石がない。<br>
<br>
　（鴨狩りについてきたんだからそのくらいの準備はしておくものだと<br>
<br>
　思うのですが、先が読めないサラリーマンというのは昔からいたもの<br>
<br>
　ですね）<br>
<br>
　困った側近は近くの魚屋に飛び込んで「将軍様が所望だ」と蛤を<br>
<br>
　拝借し、それを鴨に向かって投げたそうです。<br>
<br>
　<br>
　さて、その話を聞いた老中は蛤の代金をどうしようと云うことになり<br>
<br>
　知恵伊豆と呼ばれる松平信綱は「殿のお役に立って大変名誉なことだ。<br>
<br>
　代金を払うまでもあるまい」と言ったのですが。横にいた忠秋は<br>
<br>
　「庶民と云うのはわずかな稼ぎで生活している。庶民に迷惑をかけては<br>
<br>
　ご政道は成り立たぬ」と言って、代金を払うように命じたとのことです。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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<br>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50660799.html">
<title>火事と喧嘩は江戸の華、明暦の大火　その２　千代田区に寺がない理由</title>
<link>http://tokugawake.livedoor.biz/archives/50660799.html</link>
<description>
　当時（四代将軍家綱の時代）、江戸の町は急速な発展で手狭となって

　おり、また大名家の相次ぐ取りつぶしで職にあふれた浪人の生活圏が

　なく、江戸に行けば何とかなると云うので一種のスラム街もたくさん

　出来ていました。


　ここで面白い状況証拠が...</description>
<dc:creator>strawberryfloor6</dc:creator>
<dc:date>2009-03-21T00:07:59+09:00</dc:date>
<dc:subject>四代家綱</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
　当時（四代将軍家綱の時代）、江戸の町は急速な発展で手狭となって<br>
<br>
　おり、また大名家の相次ぐ取りつぶしで職にあふれた浪人の生活圏が<br>
<br>
　なく、江戸に行けば何とかなると云うので一種のスラム街もたくさん<br>
<br>
　出来ていました。<br>
<br>
<br>
　ここで面白い状況証拠があります。<br>
<br>
　本妙寺は火を出したと云うのに取りつぶしには遭っていないのです。<br>
<br>
　それどころか、同じ場所に再建が許されました。（明暦の大火で焼けた<br>
<br>
　寺はどこも江戸市中での復興が許されず、すべて江戸市外へ移転して<br>
<br>
　います。それで現在でも当時の江戸市中だった千代田区や中央区には<br>
<br>
　寺が殆どないのです。江戸市中と云うのは意外と狭い地域です）<br>
<br>
　幕府はこの火事を機に江戸市中の区画整理をやり直したのです。<br>
<br>
　寺を追い払い大名屋敷を集め、道を広くして火事が燃え広がるのを<br>
<br>
　防ぐようにしました。<br>
<br>
　現在の上野広小路の「広小路」は当時出来た道の名残です。<br>
<br>
<br>
　さらに本妙寺は当時の老中、阿部忠秋から、出火以来「供養料」を<br>
<br>
　毎年貰うようになりました。これは多額の金で大正まで続いています。<br>
<br>
　阿部忠秋の屋敷は本妙寺の隣にありました。<br>
<br>
　また本妙寺は法華経の触頭（幕府からのお達しを宗派内に伝える<br>
<br>
　役目）に出世し、法華経の寺の中では群を抜く力を持ちました。<br>
<br>
<br>
　これから推測できる事は、出火元は本妙寺ではなく阿部屋敷だった<br>
<br>
　のが事実ではないのかということ。<br>
<br>
　このことは昭和の末になってから本妙寺がその寺報で記事にしています<br>
<br>
　老中の屋敷が火元で江戸市中が丸焼けになったのでは、幕府の威信は<br>
<br>
　地に落ちるので阿部家に頼まれて本妙寺が身代わりになったという<br>
<br>
　ものです。<br>
<br>
<br>
　さらには本妙寺は単に身代わりになったのではない。<br>
<br>
　あの火事は幕府による放火であると云う説まであります。<br>
<br>
　その根拠は一気に都市計画が幕府の思うように進んだこと（莫大な<br>
<br>
　立ち退き料を払わずに済んだ。また相手によっては金で解決できない）<br>
<br>
　当時の老中には阿部忠秋だけでなく知恵伊豆と言われた松平信綱がおり<br>
<br>
　信綱ならやりかねないとも言われています。<br>
<br>
　（阿部忠秋は庶民にも結構人気のある老中でした）<br>
<br>
　さらに「振袖火事」の噂が瓦版のない時代にしてはあっという間に<br>
<br>
　広がったこと。<br>
<br>
　また本妙寺の火元だけでなく、消えそうになると新しい火元が出てきた<br>
<br>
　ことなど、なるほどと思わせる事件です。<br>
<br>
<br>
<br>
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</item>

</rdf:RDF>
